2007年4月30日月曜日

スプリングヒルにお引越し

2006年11月1日


最後の夜ご飯を皆で囲み、ママにお礼して、ホームステイ先を出た。


夜のバスに乗って新しいお家へ引っ越し。

オーストラリアに来て1ヵ月が経過し、スプリングヒルに立つ2軒目の我が家へ。

実はこの一軒家は、2階建てになってて、合計13部屋ほどあります。
各部屋を賃貸してて、わたしが借りたのもこのうちの一部屋。

 個人の部屋以外は全て共用スペース。キッチンもシャワーもトイレも空いてる時に使う
階段を下りると5部屋ある。下にもシャワー室2つとトイレがついてる


 キッチンに2つある冷蔵庫もシェア。皆大体置く場所が決まってる

 家の裏は洗濯物を干すスペース。洗濯機は有料コインタイプ


 地元の不動産屋から借りただけあって、ここに住む人達が多国籍で英語環境すぎた!!


オーストラリア、ニュージーランド、コロンビア、スイス、アイルランドととにかく異国。



繁華街で一人部屋なくせに、1週間$120 部屋は狭かったけどね
PCを持ってれば無線LANも飛んでる




いやぁ。ユカコに感謝




2007年4月27日金曜日

オーストラリアので一人暮らし 不動産屋



ブリスベンにもクラブがいくつも存在し、金曜の夜はそこらじゅうめちゃくちゃ盛り上がってます。



ホームステイ中、学校の友達とクラブに行くため、ZONE4のド田舎にいた私はバスに乗って市内まで出てきました。



初めて見る夜の都会!!

街の景色がだんだんライトで明るくなっていってめちゃくちゃ感動した!ホームステイ先は街灯すらなく暗黒の闇状態です

クラブはこの後も通う事になります。ハマる。海外のクラブってほんと楽しすぎる!!!!


この時バスから見た景色が強烈に印象に残ってたから、ホームステイが終わったら市内に住みたいと漠然と決めてた。



1ヵ月間のホームステイが終わろうとしていた頃、次のシェアハウスを決めてなかった私に最高の助けが!!






実は、私がホームステイ先を出るタイミングと、ユカコが日本へ帰国するタイミングが同じだった。

で、ユカコが住んでる家を引き払うからそこに住めば?って言ってくれたんです。ほんとツイてる

ユカコの家には何度か遊びに行った事があって、何よりこの人の次に住むなら安全だろって事で即決。


その家がこれ











デッカイ一軒家~✧‏

 おもっきり人の手でペンキ塗った感がいいよねー┐('д')┌

超超町の中心に近く、学校まで徒歩で行ける!スーパーマーケットが近く!




もちろん、簡単にこの家に移り住めたわけではなくここからがけっこう苦労した。


まず、不動産屋に行ってこの家を契約しないといけない。 何てハードなんだろう




オーストラリアに来て1ヵ月の私が、地元の不動産屋と契約できるわけないよね。英語力ゼロなうえ、ワーホリですよ




とりあえずこの家から徒歩3分ぐらいのとこにある不動産屋へ。


入ってすぐに受付。

気が抜けた。


受付のお姉さんがカウンターで丼ぶりを食べてた。ナンナノ・・・?!


そして丼ぶりを食べながら接客をしてくれた。・・・ブッ



この日はユカコと祥子と3人で行って、ユカコが退室の後、私を紹介したいと話してくれた。



お家を契約するには保証人が2人必要だと言われた。


一人は祥子。アリガト

ホームステイ先に戻ってママに相談したけど、それは協力できない、ごめんねって事で


学校の一番偉い人のところへ。


保証人が要るんですって言ったら、即答でイイヨ!って言ってくれ、保証人はこれでクリア!!!!わーい





ユカコはすでに帰国してたから、後日祥子と2人で、2度目の不動産屋。


契約ってとにかくたくさんの用紙を渡され、サインする箇所が多くて、おまけに全部英語でほんと意味不明。

電子辞書だけを頼りに、意味を調べながら進めていったけどこの日も契約までは至らず。





また日を改め、3度目の不動産屋。祥子は予定があったから今回は一人で。


この日、やっと契約成立。

お姉さんの指定する箇所にいくつもサイン。



家まで案内すると言われたけど、知ってるって事で家の鍵だけ受け取りサイナラー!!


お姉さんの名刺の裏に契約した住所と、家の裏の暗証番号を記入してもらった。
正面玄関は鍵だけど、裏口は暗証番号で入るシステム



3か月間この家を契約し、家賃は1週間分ずつ銀行支払いしてねって事だったので、
毎週木曜日に銀行に通う事になりました。





これでやっとお家が確保できたぞーーー





2007年4月26日木曜日

ホームステイから一人暮らしへ


ホームステイの契約は1ヵ月だけしかしてなかったため、次の宿を探す必要があった。


友達ができ、シェアハウスの探し方や情報は自然と入ってきた。
アジア食品のスーパーの入り口にも留学生向けにシェアハウスの張り紙がたくさんあるし、専用のウェブサイトもいくつか存在する。
ほとんどの人がそうやってシェアハウスを探してた。


あとは、家賃・立地・条件で選ぶだけ。でも、私の性格上、ギリギリまで動かない。


学校に、ユカコという日本人がいて、祥子の紹介で仲良くなってた。
ユカコはワーホリではなくて、観光ビザで1ヵ月間だけブリスベンに滞在してた。

実は、ブリスベンにきてケータイを持ってなかった私の手伝いをしてくれたのは祥子とユカコ。

ワーホリの人のほとんどがこのタイプのプリペイド携帯を購入してた。

ノキア
安かったし、無料通話がたくさんできてメッセージも送信できる。蛇のゲームもよくやった



実は、お家をまじめに探さず、学校終わりにクラスメイトと遊んでばっかだった私は、
ホームステイ終了期間までにシェアハウスを決めれてなかった。ありえない


そこで、ママに相談し、ホームステイを1日延長させてもらった。
この頃、エリはホームステイを終えてすでに家を出ていて、もう一人の男の子も同じでした。1ヵ月ごとにホームステイの留学生が入れ替わってたよ


ホームステイ代いくら払えばいい?ってママに聞くと、いくらでもいいからユカが決めてって言ってくれた。
初めのホームステイ代はエージェントエージェントを通して支払ってたため、めちゃ高額で実際の相場を知らない私。
後に友達に相談してママにちゃんと支払いました。




で、私がこの後家なき子になるわけじゃなく、シェアハウスに移りすむわけでもなく、自分でも想像していなかった






地元の不動産屋さんから家を借りる事になります。








2007年4月24日火曜日

語学学校初日

2006年10月2日


オーストラリア入国2日目から忙しく始まる語学学校。

このスケジュールには一応理由があって、
3ヵ月間学校に通って、年内に卒業する為にはこの日から入学するしかなかったんです。

毎週月曜日に入学受入れをしているため、次の週から入学してしまうと、中途半端に冬休みを挟んで卒業が翌年に延びてしまうんですねー。


ホームステイでの朝食は、冷蔵庫にあるものを使って自分で準備するので私は毎朝トーストかシリアルで簡単に済ませました。

お昼はママが作ってくれたお弁当を持参します。


初日の登校は、隣の部屋でホームステイ中の韓国人のエリが私を学校の前まで連れてってくれました。

エリがめちゃくちゃ優しくて面倒見がよくて英語がうまいのでその後も世話になり続ける事になります。


ママがエリに、帰りもユカを連れて帰ってきてって言ってたらしく、学校が終わった後の待ち合わせ場所と時間を決めて、
エリも自分の学校に向かっていきました。



学校の前まで送ってもらったけど、 初海外に興奮してる私はオーストラリアに着いて初めて一人っきりになった瞬間がたまらなくうれしくって、来た道を戻りひとりカフェへ。


(当たり前だけど)外人がカウンターで接客してる!!!


コーヒーをオーダーして値段を言われたけど、まだオーストラリアのお金に慣れてないし、
持ってるコインをカウンターに並べ、ゆっくり数える。


店員のお兄さんが優しくて一緒にコインを数えながら受け取ってくれました。


満足したところで語学学校!

デデーン
私以外にも数名入学の人がいた。

ここはPCルーム。自由にインターネットが使える。メールチェックするのによく使った


 学校に行くと、アメリカのコメディアンみたいな丸メガネの白人の先生と向かい合って、ドドドっといろんな質問をされた。

これがクラス分けになるみたい。


たぶん簡単な事しか質問されてないけど、ネイティブが話すスピードに全くついてけず、まったく言ってる事も理解できなかった。

コメディアン風の先生がニコっと笑い、わたしの面談一瞬で終了。もちろん一番下のクラスです


その後、コメディアンに教室に連れてかれ、授業中の教室にそのまま入れられ、端の椅子に座らされて、何もなかったように続く授業。


私のクラスの担任の先生は白髪の老眼鏡のおじいちゃん。優しい顔だった。

クラスメートは10人前後だったかな。

ほとんどが韓国人で、日本人は女の子一人だけ。この学校自体、日本人が私を含めて3人だけだった。


1時間目の授業が終わり、授業の流れも全てわけが分からなかったから日本人の女の子に声をかけてみた。

祥子っていう名前。後に、祥子とはワーホリ生活でずーーっと繋がっていく仲になります。

祥子にクラスの事、クラスメイトの名前を教えてもらいとりあえず午前の授業が終了。


学校の屋上がランチのスペースになってて、学校中の生徒が屋上に向かっていきます。
祥子はパートタイムで語学学校に通ってるため、ここでお別れ。

私も学校の外を探索しに出かけてみた。市内でショッピングモールがあるからデパートやパブ、薬局と何でも揃う。

学校の裏のブリスベン川


午前と午後は先生が変わります。午後の担任はメガネのショートカットの40代女性。見た目怖そう・・

クラスメイトは皆フレンドリーで国は違うけど、クラスが同じ=英語レベルが同じ。ってことで、なぜか通じ合います。


授業が終わると、寄り道する暇なく、エリと待ち合わせの場所へ。あー寄り道したい!



バスに乗り、ホームステイ先へ。
終点の一つ手前のバス停で降りなきゃいけないため、目的のバス停の目印をエリが教えてくれました。
あっちは日本みたいに次のバス停をアナウンスしてくれません・・・


明日から一人で学校行ける宣言をして語学学校初日終わり。







2007年4月22日日曜日

ワーホリスタート

2006年10月1日



ブリスベンの空港に到着して、まずエージェントの人を探した。
私以外に3人の日本人の女の子がいて、皆同じエージェントからきたワーホリの子達だった。


ゆったりする暇もなく、空港までお迎えにきたホストマザーに引き渡されそこからホームステイ先の家まで車で移動。

英語で会話なんて出来ないのにそっこうホストマザーと2人っきりの空間・・・おおお



私のホームステイ先は、Zone4。市内からバスで40分のところにあるRiverhillsというところ。
家以外何もない。



家に到着し、ママが何か香港っぽい麺をお昼ご飯に出してくれた。



これコショウ味?コショウ以外感じない!!コショウが効きすぎてて辛さで食べれない・・・・辛っ


ご飯のあとは軽く家のルールを説明されて(何となくリアクションで理解)、家の向かいにあるバス停から町までおでかけ。
 これが私の通う語学学校↓車邪魔や

明日から通う語学学校までの道順を教えてもらい、モールの服屋さんに寄ってお買い物←ママがね


アジア食品の小さなスーパーに立ち寄って、なぜか2キロぐらいはある巨大なキムチの袋を買うママ・・・


忙しく市内を周ってからまたバスに乗り込み、家まで戻る様子。
オーストラリアに着いてからバタバタで疲れた私はバスで眠ってしまい、家に着いてからまた寝た。



夕方、ママに起こされると韓国人の女の子一人、韓国人の男の子一人がいた。
全く聞いてなかったけど、この家には私以外にもホームステイをしてる人がいたみたい。


子ども達も学校から戻ってきて皆で夕食。


ママ手作りの韓国料理を食べたここどこ




オーストラリア生活初日終了。
明日から語学学校スタート!!







2007年4月1日日曜日

ワーキングホリデー 出発まで



元の元は、英語に興味を持った事から始まったワーキングホリデー



19歳、洋楽を聴くようになって、洋楽しか聴かなくなった
でも、洋楽好きなくせに英語が全くできないなんてかっこ悪すぎる・・・

これは英語できないとだめだなーと思いはじめるつまらん理由や・・・




高校を卒業してから、ライブハウスやコンサート会場でアルバイトをしてたから、海外の人と接する機会もあった。
ただ、話しかけられても意味が全く分からなくてお互いオーバーな動きで会話し何とか乗り越えてきました。



しばらくして、別のコンサート企画会社の面接を受けてそっちに移動した頃、同年代の女子がたくさんいてワーホリ経験者と出会った。
ただ、当時私は海外に一度も行った事がなく、知識ゼロだったのでワーホリなんて言葉すら知らなかったなぁ


そのワーホリ経験者がライブ好きだった事から、アーティストにハグしてって何て言うの?それすら分からんレベルだった とか、
くだらん話に盛り上がる日々✧‏



しばらくして、女の子の一人の親戚がアメリカでパイ屋さんをしている事が判明して、
夏に皆でお店を手伝いに行こう!っていう話で盛り上がった。

そこで初めて海外に行く事をハッキリ意識し始める。
ジョンフルシアンテがCarvelって曲でDriving to eat a carvel cakeって歌ってるからなんか勝手にワクワクしてしまった。パイ屋と無関係やしアメリカ以外何も共通してないけど。


結局、その話は流れてしまったけど海外に行きたい気持ちが盛り上がり過ぎてピークに達した夜、父に言った



「海外行っていい?」



「んーー、いいよ」



21時過ぎ、嬉し過ぎてそのまま家を飛び出して本屋にダッシュして留学の本を一冊買った。



ワーホリにかかるお金の事なんて全く考えてなかったから、実際ワーホリに出発できたのが約1年2か月後。




留学本の中に、ファームステイってゆう広告があって、これが異常に安かった。
ニュージーランド。牧場で住み込み、お仕事を手伝いながらお小遣いがもらえてかかる費用が1年間で20万弱。

とにかくすぐに出発したかったから、このエージェントに連絡。


後日、西中島南方にあるエージェントに足を運び、詳細確認。

で、他の道を選ぼうと思い直した。実際話を聞くと興味が無くなりました



私の担当をしてくれた長井さんという女性にいろいろ説明してもらい、英語圏でワーホリの受け入れが多い国、
カナダかオーストラリアのどちらかに絞る事になった。


どっちがいいか聞かれたけど、どっちでも良かった。どっちの国の事も全く知らなかったから想像できなかった。バカだなぁ・・



で、寒くない方、オーストラリアに決定。ほんとカだなぁ・・


クイーンズランド州のブリスベン。この都市が人生初の海外に♛‏長井さんが決めてくれたんだよぅ


ここから出発までは貯金のためにたくさんアルバイトをして、ちょこちょこエージェントに顔を出して準備を進める日々。


貯金のためにバイト先を変えると、ブリスベンのワーホリ経験者と運良く出会えてアドバイスをもらえた。



初めはエージェントに言われるまま、語学学校とホームステイをそれぞれ3か月間する予定だったけど
ホームステイは1か月で十分。エージェントに払うホームステイ代は高い。シェアハウスはすぐ見つかる。
と教えてもらって、語学学校3か月とホームステイ1か月に変更。




出発の3か月前になると、エージェントで週1回行われる英語レッスンに参加。
私の英語レベルってほんとにひどくて、中一レベル以下だったんじゃないかな・・・



結局ワーホリのために100~120万円ぐらい貯めた気がする。出発前に納めるものが多かった。




海外未経験の私はもちろん航空券の手配も分からず、教えてもらうのも面倒でこれもエージェントにお願いしてました。

一番安い大韓航空で乗り継ぎしながらのブリスベンまでのフライト。


ただ、ラッキーだったのが、私の担当の長井さんが会社で賞をもらったけどそれを使う時間がないからこれ使ってって私に譲ってくれたものが

ブリスベンまでの直行便のチケット✧


大韓航空のチケット代を支払ってたので、その値段のまま直行便に乗れる事になった!!やったーー!!



さらに出発が近づくと、ホームステイ先の情報が届いた。


ママと、7歳と5歳ぐらいの子ども(男の子)の3人家族。
名前と連絡先と住所、家の写真が記載された用紙を受け取った。
ホストマザーの名前がAmyだったけど、あ・れ・・・・




香港人やないか!!!!!!!!!!!!!




オーストラリアに暮らす香港人の家庭にホームステイする事になった私は、ママの趣味も記載された用紙を参考に、
ホストファミリーへのお土産を用意してその日を待ちました。






ブリスベンに着いたら空港で現地のエージェントが待ってるよって事だったので、関空まで家族に見送りにきてもらい
やっと初海外とワーホリを一気に叶える時が不安と孤独飛行機でボロ泣きしたけど






では行ってきまーす!!!!!!